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萩原淳子インタビュー「フラメンコはアルテ」前編
- 2024/9/8
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2024年8月10日、ムルシア州ラ・ウニオンで開催された第63回カンテ・デ・ラス・ミーナス国際フェスティバルのフラメンコ舞踊コンクールで優勝した萩原淳子さん。その記念に、彼女のフラメンコ人生を振り返ってもらいました。スペインで認められ、プロとして活躍する彼女が、どんな風にフラメンコと出会い、研鑽を積んできたか、華やかな活躍の影にあるたくさんの愛と敬意と努力。日本でフラメンコを愛する人たちに、ぜひ読んでいただきたいです。(インタビュー/構成 志風恭子)
前編はフラメンコとの出会いや日本での練習生時代のお話です。
生まれたのは茨城県なんですけど、すぐ横浜に引っ越して1年くらいいて、それから川崎市宮前区へ。そこで育ちました。父は郵便局員で母は洋裁の仕事などしている、ごく普通の家庭で育ちました。小さい時から踊るのは好きで、でもバレエを習うとかはなくて、家で好き勝手に踊っていました。
フラメンコとの出会い
中学校で新体操部に入りました。いわゆる部活動で、習いに行くとかではないです。その頃、テレビでいろんな国の選手が出場する試合を見ていて、スペイン人の選手が出ていて、多分、私それが意識して見た最初のスペイン人だと思うのですけど、フラメンコギターの曲を使っていたんです。
このとき初めてフラメンコという言葉を聞きました。フラメンコギターの音を聴いたのももちろん初めてで、音とか、メロディとかにどっかーん、とショックを受けて、こんな音楽が世界にはあるのか、と。テレビの解説でスペインにはフラメンコという音楽と踊りがあります、と言っていて、え、踊りがあるの、それ踊ってみたい!と。高校ではダンス部にちょっと入ったんですけど、あわないな、ってすぐやめちゃったんですよ。ジャズダンスぽい感じで。それでやめて。
テレビでフラメンコという言葉を知ってから、フラメンコ聴いてみたい、と思ってレンタルCD屋さんで探したんですよ。1枚だけあって、借りてきて聞いてみると最初の曲がギターのない、今考えてみれば、トナーかなんかだったと思うんですが、声もガラガラ声で、なんじゃこりゃ、って、こわい怖い、ってなっちゃったんですよ。母にお母さん、これ聞いて、って聞かせて、母も、『これはちょっと…18歳未満には…』ってなって。フラメンコに歌があるって知らなかったし、いや、歌だとも思えなかったんですよ。声で。フラメンコは封印されてたんですね。
でも1回カルチャーセンターで見つけたんです、フラメンコを。電車に乗っている時、フラメンコ、という看板が見えたので、降りて見学に行ったんですよ。見学に。そこで、『レッスン代と、発表会の費用と、靴とカスタネットと、月謝も3ヶ月分払わなくちゃらないんですよ』と言われて。高校生だったから。無理だ、と思って、大学に入って、アルバイトでお金を稼げるようになったら始めよう、とその時思いました。
大学でフラメンコ・サークルに
大学に入ったら、フラメンコサークルがあって、おおっとなって。早稲田のフラメンコサークルはプロになった人もけっこう多くて、近藤尚さん、後藤めぐみさん、ギターの山本智英さん、西井つよしさん,、中川浩之さん、カンテの高橋愛夜ちゃん、学習院大学から来ていた中谷泉ちゃん等が同じ時期にサークルでいた仲間で、石川慶子ちゃん、屋良有子ちゃんが後の世代で、もっといっぱいいるかと思います。…ちょうど、大学のフラメンコサークルが盛り上がっていた時期で、小倉真理子ちゃんが連盟の長やっていて。早稲田は連盟とはちょっと離れていたんですが、でも横のつながりもあって。今もサークルはあります。そこで初めて習い始めました。講師は京谷清子先生でした。週1回のレッスンですが、サークル価格というか、お月謝も高くなくて、大学の中にサークルの練習室みたいなのがあって、いくらでも使えるので練習したりして。
日本の恩師
サークルで教えてくださっていた京谷先生は当時スペインに行ったり来たりされていて、時々3ヶ月とか、クラスがお休みになっちゃうんですね。サークルで買っていたパセオに、当時セビージャにお住まいだったAMIさんの基本のクルシージョがあると掲載されていたんです。京谷先生がお休みの間にそのクルシージョをとって、基本を固めて先生をびっくりさせよう、と思って(笑)。それが最初です。
実際にクルシージョに行ってみると、今考えると確かに基本のクラスなんですが、あの当時の私にはすごくレベルが高くて、基礎練、サパテアードやって、みんなバーっとやっていても、私はぜんぜんとれなくて。ほんと、何にもできなかったんです。あまりにもできないものだから、AMIさんが来て手つないで、一緒にやってくれて、それでもできなくて。クラス終わった時あやまりにいきました。「基本クラスとあったので参加したのですがまだ初心者でとても追いつかないので、もうちょっと練習してからまた来ます」って。その時にAMIさんが「皆、自分のことで必死だから他の人のことは気にしないで、上手くなりたいんだったらいらっしゃい」、と言ってくださったんですね。それで、できないなりに、難しいパソの今日はプランタだけでも、次はプランタとタコンのところだけ、という感じで、少しずつ。
あの時、「そうね、あなたには難しいわね」と言われていたら、多分それで終わったと思うのですが、その時、来なさい、といってくださったのが、有難いなと思っています。当時は大学生で時間もあったので、できるだけ出て、そのクラスを録音して、次にAMIさんがいらっしゃる時までに、1年に2回くらいいらしていたので、その時までに復習しておくというのをやっていました。サークルで続けながら、AMIさんが日本にいらっしゃるとクルシージョで習うという感じです。
大学3年生の時からAMI さんの公演に出演させてもらうようになりました。サークルで習った京谷清子先生と、AMIさんが日本での恩師です。京谷先生からもすごい影響を受けました。一番最初の先生だったし、先生が学んだセビージャのことをいっぱい聞かせて下さったんですよ。そういうとこからセビージャに行きたいな、という気持ちがすごく高まったんですね。
スペインに行きたい
スペインに行くということはもう最初から決めていました。それこそ、セビジャーナスを習っている頃から。京谷先生が、クラスの後、必ずセビージャの話をいっぱいしてくださって、私はその話を聞くのがすごく好きで、ああ、そんな生活があちらにはあるんだな、って。まだインターネットもなくて、そういう話がすごく新鮮で。ああ、日本とは違うんだ、って。先生はそういうつもりでお話しされていたわけではないと思うのですが、向こうにいかないと、そういうのを体験できないから、行かなくては、って。まだフラメンコがなんだかわからないからそれを知りたい、というのがすごく強かったと思います。
プロを意識しだした頃、AMIさんと森下裕子さん、長谷川典子(現初瀬河典子)さんと3人で『ラス・エナモラーダス・デ・セビージャ』という公演があって、その時、初めて、プロの方々と共演する機会をいただいたのですが、プロって考えていたよりもずっと厳しい世界なんだな、と思いました。皆。スペイン人ミュージシャンとスペイン語でやりとりしていたんですが、まずそれが全然わからない。踊りでも、まだはじめてから3年目くらいだったというのもあるのですが、振り付けで、じゃあ、これやりましょう、って言われても何の話をしているのか全くわからないんです。言葉の意味も、概念も。ここでジャマーダしてと言われても、なぜここでとかも全くわからなくて。振りを取るのも遅いし、スペイン語もわかんないし、もう何をやってるんだか、っていう(笑)。
それまでは、大学生のうちにバイトしてお金貯めて1年間留学して帰ってきたらプロになれるのかな、となんとなく思っていたんですが、そんなんじゃダメなんだと感じて、それで就職することにしました。お金をもっと貯めるために。プロになると決めていたかと言われると微妙で、プロが厳しいというのも気づいたし、でもとにかくフラメンコを知るためにはある程度まとまった期間、スペインに行かなくちゃ、と。1年ちょっと行って帰って来ただけでプロになるとか、フラメンコ教えるとか、知った気になるというのは間違っていると思ったんです。
仕事をしながら
なので、大学卒業して就職しました。親からお金をもらってスペインへの留学のするというような環境ではなかったし、自分でお金を稼がなくちゃと。お金を貯めなくちゃというのでお給料のいい会社を選びました。週休二日とかでもなく休みも不規則で、仕事は大変でしたけど、練習する時間は取れるようにして、お金を貯めつつレッスンしてました。と言っても仕事の時間が不規則なので毎週何曜日の何時から誰某先生に習う、ということはできないので、自主練習中心です。で、AMIさんが日本でクルシージョをされる時にはがんばって行くという形でした。平日が休みなので練習スタジオが取りやすかったのは良かったことかもしれません。3年ちょっと勤めていました。
AMIさんには舞踊基礎を全部、習いました。テクニック、コロカシオン(姿勢)、サパテアード、ブエルタとか、フラメンコの舞踊基礎は徹底して習いました。振り付けも個人レッスンで少し習ったり。あと、カンテを聞く、というのはすごく言われましたね、初心者の頃から。初心者だからカンテを聞く、ということがどういうことだかわかっていない状況だったのですが、そういうものだ、と概念みたいなものが叩き込まれたという感じです。あと、スペインのフラメンコ、という言い方をよくされていて、日本のフラメンコが悪いというわけじゃないけれど、やはりスペインのフラメンコを見て、肌で感じて吸収する必要があるんだな、ということを感じていましたね。
どういう文化かも、全く違う生活に自分がなれるかどうかも、全くわからなかったので、とりあえず1年、と思って。大丈夫だったら、もう少しいられたらいいな、と。お金はどのくらいだったかな、1年の留学資金が100万円くらい必要と言われていたけど、ちょうどユーロに変わる頃で、物価も上がって。なので、1年以上いられるくらいと思って、200〜300万円くらい貯めていたのかな、ちょっとはっきり覚えていません。
2001年、スペインに来る直前ですが、フラメンコ協会の新人公演に出て奨励賞を頂きました。
それで父が少し認めてくれました。うちはアーティスト一家とかではないし、ごく普通の勤め人の家庭で、でもうちの娘はこういう賞を取ったんだ、ということで、フラメンコっていう何だかわからないものでも、頑張って結果を出しているというのが伝わったのだと思います。
【萩原淳子クルシージョ情報】
オンラインクラス
カンテ・デ・ラス・ミナスコンクール優勝記念/萩原淳子オンライン講義「タラント研究」
📝クラス内容:
①カンテ音源を使用し、タラントを含む鉱山の歌グループの歌の背景や歌の内容への理解を深める
②バイレ動画を使用し、歌と踊りの絡みや、歌にどう呼応して踊るのかを研究する
📌全7回分アーカイブ(Youtubeリンク)9月末までご視聴ok
📌全7回分資料メール送付
📌9/23(月祝)20:00より特別補講(zoom、アーカイブあり)
⭐️受講料:19,500円
⭐️お申込先:onlinelayunko@gmail.com(ハギワラ)
日本でのクルシージョ
第32回少人数制クルシージョ(東京)
10/5~11/16開講
第23回大阪クルシージョ
11/2(土)開講
第23回福岡クルシージョ
11/3(日)・4(月)開講
お問い合わせ:layunko@gmail.com