その特異な桜に出会ったのは、1996年の4月のことでした。私は上七軒の萬春さんにいました。萬春さんは、もともとお茶屋さん。オーナーの伊藤かよ子さんがそこを改装してフレンチ洋食のレストランにしたのです。1階のカウンター席は、有名無名問わず、成熟した文化人たちが気取らず立ち寄る場にもなっていて、舞台や展覧会の話が飛び交い、これからはばたく若者たちを応援する空気が満ち満ちてもいました。ある舞妓さんと仲良くなったのをきっかけに訪れるようになった私も、ここで知り合った写真家の松尾弘子さんに『西陣グラフ』の連載エッセイのお仕事をいただき、それが婦人画報の連載や、本の出版につながって、物書きとして駆け出すことができたのです。
とはいえ駆け出し。そんな私に、かよ子さんや松尾さん、ときには常連のお客さまたちが、いつも何かご馳走してくださいました。京都なのに? そう、京都なのに。思えば不思議なところでした。信頼できる人からの紹介はたしかに大事でしたが、「文化を愛する、京都が大好きな、夢に向かってがんばっている若者」はとても大切にされ、よく言われる「勧められても3回断れ」的なルールは適用外でした。
「うちらに返すこと考えんでええから、いつか誰かを育てられる人になりよし」
そんな言葉と一緒に、目の前に素晴らしく美味しい「シチューの壺煮」が出されるのです。
今はかよ子さんも松尾さんも天寿を全うして天国に行き、萬春さんの跡地には違うお店が建っています。その分とても懐かしいです。ここでのエピソードを語り出すとキリがないので、またの機会に。
何はともあれ、私はあの日もそこにいました。いとたのしき春の夜でした。すると常連さんらしき人が入ってきて、こう言うのです。
「御所の松と桜な、心中しはったえ」
「え?」という顔になった私に、まわりが口々に説明します。
「桜松いうてな、松やけど、桜なんや」
「花は桜、せやけど、外側は松やねんな」
「そやそや。わかるか?」
わかりますかいな。ますます「??」になった私を面白そうに見て、かよ子さんが言いました。
「ほんなら、まっちゃん(松尾さん)と見に行ったらええわ」
「桜松」と呼ばれるその木は、京都御苑の西側、学習院跡と言われる場所にあります。見た瞬間、私は息を呑みました。1本の木が根こそぎ倒れていました。見上げるものだとばかり思っていた花々が、足元にほの明るく、散らばるように咲いているのは衝撃的な光景でした。そしてたしかに幹は松。枝と花は桜。ゆっくり聞いてやっと理解できました。空洞化していたクロマツの上部の虚にヤマザクラの種が落ち、根を下ろして育ったのだそうです。それが満開の花をつけたまま倒れたのでした。私はただ立ち尽くしていました。春の夜風の中で胸がしめつけられました。木はもう死んでしまうのだと思ったから。「何か書かなきゃ」という思いに突き動かされましたが、すぐに形にするには人生経験が足りなすぎました。
この日の記憶が、松と桜と風と嵐の織りなす一編の童話になったのは、それから約10年後。その間、私は知りました。人々が根本に土をかぶせて見守る中、桜松が見事に生き延びたことを。この作品は2016年、先に朗読音楽劇「さくらまつ」として世に出る機会をいただき、さらにこの初夏、銀の鈴社から出版が決まりました。ただ私はこのエッセイをその宣伝に使うつもりで書いているのではないので(読んでいただけたら嬉しいですが!)、次に行きますね。今日伝えたいのは、本物の桜松の、今現在のお話です。