大沼由紀『再スタートを切るために』

バイラオーラの大沼由紀さんがフラメンコサイト『Flamenco2030』のために描き下ろしてくれたエッセイが届きました。苦しい春。あらゆるものが停滞し、外部と遮断され、誰もがこれまで以上に孤独を耐えなければならない状況。けれどだからこそ自問自答を深め、真に大切なことを知る貴重な時間だったのかも知れません。苦境の中で見出す一筋の光こそが生きる上でのひとつの「幸」だと、大沼由紀さんの言葉は気づかせてくれます。ぜひご一読ください!(『Flamenco2030』編集部)

 

Flamanco2030』 描き下ろしエッセイ
『再スタートを切るために』
文/大沼由紀
Texto por Yuki Onuma
Foto por Yumiko Iguchi

 

誰もやって来ないスタジオで、プランタタコンの音を探す。探したいという欲求だけ。クラスのためでも本番のためでもない。純粋練習。あー、これが自分のベースだったと思い出す。

気が付けば、クラスのため、本番のための練習に追われる日々を何年も過ごして来た。そんな中、フラメンコを人前で踊るのも教えるのも全部禁止になったら、一体どのくらいフラメンコを求めるだろうと、ふと考えたことがある。やはりアグヘータのカンテを聴かずにはいられないだろうか。それとも、この日本の日常にあるものに、自然に吸い込まれていくのだろうか・・・。

いやいや、そんな想像よりまずは現実だよ、これをやらなきゃ、あれも用意しなきゃ。そうやって走り続けて来た。今、突然何の前触れもなく全てのことがストップし、クラスも本番も見事に無くなり、想像が現実になった。なんてこった。

27年前のヘレスでの日々が蘇る。日本人はおらず、友人と言える人もほとんどいない。孤独。完璧に異邦人。テレビも電話もない。いつまでにこれをという宿題もなく、もちろん仕事なんかあるわけない。聴きたいもの、観たいものを求め、それがあるかもしれないところに可能な限り出掛けて行く。手持ちのお金がいつまで持つかというのが最大級の問題。今、出掛けて行くことだけは出来ないが、他のことに関してはあの頃と似ている。

求めて求めて、マドリーからセビージャ、ヘレスへと南下、どんどん孤独になっていった中で、ますます輝きを増していった憧れのフラメンコ。教える責任、舞台の重圧とごちゃ混ぜになっていたフラメンコは、すっかり姿を消した。

スタジオへと歩いて行く。いつか聴き込むぞと思って買い溜めた、ものすごい数のCDを床に並べる。いくら何でも今世でこれを全部は聴き込めないと認め、整理し、自分の範疇外と認めたものは、必要な人の元へ行くんだぞ、とアクースティカに送る。もしかしたら10年後に、あれを手放さなければよかったと思うかも知れないが、いつどうなるか分からないのが人生。それを実感させられた今、過去でも未来でもなく、今なんだというヒターノ達の人生哲学に圧倒される。すごいなーあいつら。生きるために何が大切かを知っている。

プランタ・タコン、プランタ・タコンをひたすら繰り返し、そして靴を脱いだ。靴を脱いで踊るのが好きだった。それはいわゆるバイレ・フラメンコの正しい形ではないけれど、私流カンテ一体型バイレ。久しぶりにそれをしたくなった。手元に残したCDの中から、これはというものをかけて、カンテを身体にまとわり付けて歩く。ただ歩く。カンテを支えたり押し出したりするギターとは別の役目で、カンテと共にあるために。今まで聞こえなかったものが聞こえ始め、ゾクッとした。なんと恐ろしい、美しいフラメンコ。マヌエル・トーレが私を歩かせ、立ち止まらせる。

フラメンコへの片恋はいつも私を苦しませるが、こうして何も無くなった今こそ、フラメンコは私を助ける。美しいものは人を励まし、魂に光を灯す。

このウイルスは人と人の繋がりを絶つウイルスだと、作家の辻仁成さんが書いておられた。ほんとにその通りと思った。人に会えない、触れられない、学校もオンライン授業。体育の授業ですらオンラインで出来ちゃう。なんてこった。しかしこの間、人は人との触れ合いを渇望する。そして何より究極のコミュニケーションであるフラメンコは、人と人との繋がりを絶たせるわけがない。Zoomでフラメンコ? まさか!

今は、知らず知らずのうちについた垢を落とし、大事なものはこれです!と言えるフレスコな状態になれる時間だ。あのカルロス・サウラの名作『フラメンコ』を見よ。パルメロEl Boの脇がスッと開き、全員の呼吸がほんの一瞬シンとなった直後、当然の如くにコンパスが降り注ぐ。あの鮮やかなスタートたるや。あんな風な清々しい再スタートを切るために、この苦しい日々がある。

カルロス・サウラ監督映画『フラメンコ』

関連記事

ページ上部へ戻る