2024年8月10日、ムルシア州ラ・ウニオンで開催された第63回カンテ・デ・ラス・ミーナス国際フェスティバルのフラメンコ舞踊コンクールで優勝した萩原淳子さん。その記念に、彼女のフラメンコ人生を振り返ってもらいました。スペインで認められ、プロとして活躍する彼女が、どんな風にフラメンコと出会い、研鑽を積んできたか、華やかな活躍の影にあるたくさんの愛と敬意と努力。日本でフラメンコを愛する人たちに、ぜひ読んでいただきたいです。(インタビュー/構成 志風恭子)

後編はスペインに渡って以降の学びと仕事についてお話ししてもらいました。ビデオもあります。

セビージャへ

 語学学校で学生ビザを取ってセビージャに留学しました。3月頃だったと思います。学校はヒラルダセンターというところだったんですが、日本人が誰もいなかったです。まずは日本人がいないところで語学をちゃんとやろうと思って。最初はその学校が斡旋してくれた、セビージャ大学の前のサン・フェルナンド通りのアパートに、スペイン人のおばさんとアメリカ人と一緒に住んでいました。そこは3ヶ月くらいで、その後自分でアパートを探して、その後はレオントレッセ通りのアパートに結婚するまでもうずっと住んでいました。

 セビージャで最初に習ったのはホセ・ガルバンです。ホセは午後にクラスをやっていたんです。語学学校の授業があるので、他の午前中のフラメンコのクラスには通えませんでした。7月には地域のお祭りのような舞台に出演させてもらえました。スペインでの初舞台ですね。語学学校を終えて、午前中時間が取れるようになってから、トロンボのクラスに通い始めました。3年くらいだったでしょうか。留学用に貯めた自分の貯金が底をつき、勤めていた頃家に入れていたお金を親が結婚資金にと貯めていてくれたんですが、結婚は今すぐしないけど留学は続けたい、と話して、それも留学資金になりました。

クリスティーナ・ヘーレン財団フラメンコ芸術学校

 まだ仕事もしていなかったし、まだ勉強も全然足りない、勉強すればするほど足りないというのがわかって、こんな状態で日本に帰ってどうする?と焦っていました。当時は人の目も気にしていて、日本に帰っても、萩原さんは留学していたのにこんな踊りなのね、なんて思われたらどうしよう、とか。こんなんじゃ帰れない。なんとかして、と思って、文化庁の新進芸術家海外研修制度に応募しました。小島(章司)先生に推薦状を書いて頂いて。

文化庁の選考に受かって、さらに2年間、セビージャで学ぶことができるようになりました。研修先をクリスティーナ・ヘーレン財団フラメンコ芸術学校としたので、そこでミラグロス・メンヒバルやラファエル・カンパージョに学びました。カルメン・レデスマは中級クラスで教えていたので当時は直接習ってはいません。

財団の学校はいろんな人がいっぱいいたからいい刺激にもなっていたと、今になって思いますね。メキシコから来た人だったかな、クラスメイトが『私たちは踊り手になるためにここに来たのに、練習生になるためにいるみたいだよね』ってぽそっと言ったんですよ。その時に、あ、ほんとだ、と思って、踊る機会を探すようになりました。ウブリケのコンクールに出場(2008年4位、2009年準優勝)したのも、学校でみんなが出るとか話していて、でも外国人だし他人事だと思って聞いていたのですが、『淳子は?』と聞かれて、私は外国人だし関係ないと言ったら、『そんなことないよ』って言われて、そうか出てもいいのか、ってなったことがきっかけだし。結局偏見を持っていたのは自分だったな、って。一人では思いつかなかったことが、いろいろ動いた気がします。

今回、カンテ・デ・ラス・ミーナスのコンクールで、決勝に残ったマリア・カネアとラウラ・サンタマリアも、財団の学校で一緒だったし、カンテの大賞を受賞したヘスース・コルバチョもそうです。

コンクール

 最初に出場したウブリケのコンクールで4位と言われたんですよ。3位までが受賞で、4位は賞ではない。じゃ、来年も出る、と言って、実際に出て翌年、2009年、準優勝しました。

優勝がモイセス・ナバロ、3位がマカレーナ・ラミレスでした。その次の年、ロンダのコンクールに出場して優勝しました。ロンダでも外国人初優勝だったのでもすごくびっくりしました。舞踊のコンクールは少なくて、あとはカディスのアレグリアスくらいで、そのほかはウニオンかコルドバか、って急にレベルがガーって上がっちゃう。

 コンクールはその準備する段階がすごく勉強になると思います。踊りもそうですが、歌も、普段好きで聴いている時とは別の聴き方をするし、あとコンクールって、経験した人にしかわからないものがあるんですよ。これは賞を取る取らないに関わらず。コンクールで踊って、コンクールで自分がどういう風に感じたか、という経験も大切。また、評価される、っていうのも自分のためになりますよね。人に見てもらうことによって、トリノのコンクールで準優勝したからヘレスのフェスティバルでの公演に出演できたし、

カンティーニャス・デ・ピニニのコンクールでは受賞はできなかったのですがバルセロナのタブラオ「コルドベス」出演ができたように、次の仕事につながるということもありますね。仕事の面ではプラスになりますね。

©︎ Tablao Cordobés

 スペインのコンクールは出場料はかかりませんし、日当が出るところもありますが、それでも歌い手やギタリストの出演料や交通費、宿泊代、食費などでお金はかかります。日当では全然足りません。また精神面でもマイナスなところがありますね、賞が取れなかった時の落ち込みとか。アレグリアスのコンクールの時などもう一生バタとマントンでアレグリアス踊らない、っていう気持ちになるほどで、立ち直るまで時間もかかりました。そういう精神状態になることも想定してコンクールに出場する、というのを学びましたね。落ち込んだところからどう立ち直るか、自分で精神的にコントロールしていくとか。ただコンクールに出ました、賞取れませんでした、落ち込みました。人のことひがみました、とか最悪じゃないですか。なんにもプラスにならないじゃないですか。結果は審査員にもよるし、審査方法もいろいろあるし。

ペーニャ

最初に出たペーニャは2006年、ドス・エルマナスのペーニャ、フアン・タレガなんですが、これも、私が住んでいたアパートの大家さんがそこの会員で、ヘーレン財団の学校に通っている時代に、あまりに踊る機会がなくて、自分で場所を借りて踊る機会を作って、財団の仲間に演奏してもらって自主公演をしたんですが、それを今の会長さんと見に来てくださって、それでペーニャで踊るという機会ができたんです。

この頃から、少しずつ人前で踊るようになって、財団の発表会などだけでなく、同じ年にはプエルトジャノの劇場で日本のフラメンコ熱へのオマージュという公演でもソロを踊りました。2007年からはバディアという、生ハムの業者さんが持っている宴会場みたいなところで行われるプライベートのフィエスタに、1年半くらいレギュラー出演するようになりました。ここですごく鍛えられましたね。まだ財団の生徒だったとき、カルメン・レデスマに推薦してもらって出演するようになったのですが、ここはタブラオみたいな感じで、事前の練習、合わせなどもなんにもなく、踊る曲もその場で決めるという感じで、それでずーっとやってきたので、即興で踊るとか、パルマとかも実践で鍛えられたと思います。すごい勉強になりました。その時も録音して、次の時までに聞いて、あ、ここはこうすればよかったとか勉強していましたね。

©︎ Antonio Pérez

 こういうプライベートなフィエスタは、お酒も飲んで酔っ払っている人がいることもあるし、それに比べるとペーニャは踊りを見せる、ということで、もっと“公演”に近いですね。ペーニャのお客さんは基本、会員さんで歌をよく知っているし、逆に踊りには興味ないんだけど、なんていう人も結構多くて。だからタブラオのお客さんはサパテアードすごいのをやった時にフー!とかなるじゃないですか、でもペーニャは全然違って、カンテに対するオレ!とか、カンテに対して踊っていることに対してオレ!とか、そういうところでずっと踊ってきたことで学んだ感覚は財産ですね。私の場合、バディアから続いていますね。バディアでもフラメンコをよくわかっている人も多かったし、アルティスタがお客さんの中にいたりするんですよ。だから技をやってお客さんを沸かすとかいう、そういう方向の踊りは持っていないです。バディアでタブラオで主に踊っている人と共演した時、そういう技きめて、バーンと止まってもお客さんはシーンとしていたり。そう言うところを横で見ていて学んだりとか。

バディアがきっかけになってペーニャによんでもらうこともありましたね。アンターレスという財団の奨学金を頂いたり、コンクールに出場したりしているうち、ペーニャなどの、仕事も少しずつ入るようになってきました。またセビージャや日本でクルシージョを開いたり、ほかにも小松原庸子スペイン舞踊団のサラゴサ万博やマドリードでの公演によんでいただいたり。2008年にはビエナルの並行プログラム、ペーニャ・デ・グアルディアに出演、

2010年にはヘレスのフェスティバルでのペーニャ公演にも出演しました。

日本へ帰るたびにライブに出演していますし、スペインでもペーニャだけでなく、ドス・エルマナスのフアン・タレガのフェスティバル、

©︎ Antonio Pérez

 

レブリーハのカラコラー(2019)

©︎ Antonio Pérez

ウトレーラのタコン・フラメンコなどのフェスティバルや、ヘレスのグアリダやタバンコなどでのライブにも出演しています。2019年にはマドリーでティト・ロサーダの劇場公演にも呼ばれて出演しました。

作品公演

 最初の作品『魚の選び方を知った時』は、カディスのコンクールで4位で、落ち込んでいたことからきているんです。あの時のネガティブな感情をなんとかできないか、と言うのがあって。それで2012年の10月にサラ・アンダルーサとエル・フラメンコで公演しました。

 

次の『ハモンは皿にのせるだけでいい』は、スペイン10周年記念公演というのを考えた時、自分が学んだことはなんだろう、と考えて、“ハモンは皿にのせるだけでいい”、自分にとってのフラメンコはそういうものなんだ、という結論に至って、そういうタイトルにしました。生ハムはそのまま食べられる、フラメンコも同じという意味ですね。

2015年の『人はなぜ、絵葉書の風景を探すのか』はアントニオ(夫で写真家のアントニオ・ペレス)の写真展で同時開催ということもあって、そういうテーマになりました。

今年5月、ギリホンド祭での公演の元になったのがこの作品です。あれをもう少し、劇場作品的にできたらいいな、と思っています。

ギリホンド祭での公演

2024年ギリホンド祭で

おまけ/私の好きなフラメンコたちなど

ヘレスの歌い手たち、ピリニャーカとかトルタとか、パケーラ。今生きている人なら、このあいだ聞いたホセ・バレンシアが素晴らしかったです。イネス・バカン、ドローレス・アグヘータ、踊り手はファルーコとかマティルデ・コラルとか、マヌエラ・カラスコ、ぺぺ・トーレス、ギタリストはトマティート、ディエゴ・デル・ガストール、モライート…いっぱいいますね。カルメン・レデスマ、コンチャ・バルガス、歌い手ではフェルナンダ、ベルナルダ、ランカピーノとかもそうだし。初心者だった頃にこの人みたいになりたいとかいう、お手本を持つな、と言われたんですよ、だからそういう存在はいないかな。

おすすめのビデオですか?初心者ならカルロス・サウラの『フラメンコ』とか、素晴らしいアーティストが出ているし、いろんなジャンルもあるし、中級なら『カンテの祭儀と地理』、上級はもうみんな見ているでしょう。映画ならカルメン・アマジャの『バルセロナ物語』。『血の婚礼』もみんなに見てほしいですよね。

 セビージャのおすすめの場所? フラメンコが好きなら、できればペーニャに行ってほしいですね。有名なトーレス・マカレーナもいいですが、コアなフラメンコをやっていたりするカルボネリージョとかも。最近、新しいペーニャもできてきているのでそういうところも面白いかもしれません。観光ならヒラルダの塔ですよね、セビージャといえばやっぱり。あと、うちの近くのチャリおばさんがやっているバル“エル・キコEL KIKO”安くて美味しいので地元民が多いです。

フラメンコは何、と聞けば「アルテ」と答え、あなたにとってのフラメンコはと問えば「生き方」と答える萩原淳子。今回の受賞が更なる飛躍に結びつくことを願っています。(志風)

8月8日ラ・ウニオンのコンクール準決勝、タラント
準決勝、ソレア
8月10日ラ・ウニオンのコンクール決勝でのカンティーニャス

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